あーれあれブログ

あーれあれとあれこれ言いたい

初詣 人出の多い神社が ご利益が大きいわけではないけれど・・・

2019年の末から実質感染が始まったとされるコロナですが、表題の初詣については21年、22年がコロナ禍で迎えた正月ですから、今度の23年は3年目ということになります。

この間、お参りの風景は大きく変わりました。

大みそかの夜から参道への長蛇の列は激減し、人出が集中する三が日は避けられ、別の日に参拝するなど、人の流れは変わりました。神社では、正月にしか扱っていなかった破魔矢などの縁起物も12月1日から授与するなど、工夫を凝らすようになりました。

但しそうは言っても、初詣の習慣は、平安時代にあった「年籠り(としごもり)」という風習が由来と言われています。

年籠りは、大晦日に家長が神社に籠って、新しい年の豊作や無病息災を夜通しで祈願することをいいます。この年籠りは、大晦日の夜に行う「除夜詣(じょやもうで)」と、元旦にお参りをする「元日詣(がんじつもうで)」の2つがあり、「元日詣」が現代の初詣となって伝わっていると考えられています。

そうなるとやはり、初詣は1月1日の前後、特に1日に行きたくなるは当たり前です。おみくじも引きたいですしね。

さて、今年の初詣、混雑度合いはどうなりますやら。

因みに、例年人気の高い且つ人出の多い神社を記しておきます。

 

明治神宮(東京都)

成田山新勝寺(千葉県)

川崎大師

浅草寺

伏見稲荷大社

 

例年、250万人~300万人がそれぞれ訪れています。凄いですね。

 

浅草寺はちょっと動画を作ってみました。宜しかったらご覧ください。👇

 

賑やかな雰囲気に包まれて参拝することも楽しみの一つかもしれませんが、コロナ禍3年目の今年も、引き続き混雑を避け、参拝時期を分散する一人ひとりの配慮は必要かもしれません。

みなとみらいベイホテル東急最上階からの景色はやっぱり良いね

 

数年前まではお付き合いで、ホテルのレストランやラウンジを度々利用していましたが、今ではすっかり足が遠のいていた状態。しかし、先般、大変重要な行事がありまして、みなとみらいベイホテル東急に行くことになりました。

 

 

時刻は正午から夜の間。一番”映える”時でしょうか!折角なので写真や動画を撮りまく りました。何せ、景色を一望できる最上階からですから。天気も良く最高の景色でした。


 

食事もおいしゅうございました(笑)

 

言葉よりも写真ですね。こうなると。

横浜ベイブリッジ、大観覧車、日本船クルーズ飛鳥号などが一望です。

👆の写真手前には「手すり」がありますが、高層ビルは原則「ベランダ」の設置等は建築構造上禁止ですが、このホテルだけは許可を得てるようです。

恐々外からの撮影でした。

 

みなとみらいの景色と食事等を楽しみながら、贅沢な時間を過ごした一日でした。

本当、写真を見てるだけでも雰囲気ありますね。

では、失礼します。

文字起こし 活用方法によっては大変重宝

書物、写真や音楽など、自分以外の他人の著作物を利用する際は、その著作物の権利をもつ著作者に許可をもらわない限り、複製、引用はできないです。私用を除けばの話ですが(公共、教育機関の利用等はここでは議論しません)。

一部法律上、著作者(名)、出所等を明記したり、引用範囲を明瞭化することで、その引用を認めていますが、思いのほか曖昧です。常に写真などは、芸術性や創作性に欠けたモノ(敢えて作品とは呼ばず)であるとの見解から、”創作物”ではなく”記録物”だとの強引な意見や主張もあり、写真の創作性が問われるケースが数多くあるようです。それはちょっと如何なものかと思いますが、みなさんはどうでしょう。

ところで、私的使用を前提に、数年前から活用してる「文字起こし機能」があります。私の周りの方に、たま~に聞いてみると「知らなかった」という方がほとんど。但し、この文字起こし、露出の仕方次第では、前述の著作権法に抵触する場合もありますので、十分気をつけなければいけません。

私は新聞数紙を毎日読み、興味ある記事や重要な個所を長年スクラップしてきましたが、今では全て画像処理で、保存し管理しています。スマホを使い撮影、パソコンに取り込み、必要なものはハードへ、不必要となったものや古い資料はSDカード等の外付けへと分別管理しています。

実はこの管理、良さそうで大きな盲点があるんです。デジタル化された媒体は1枚1枚ですので、探す手間、めくる手間が相当な難儀。記事ファイルがあればあるほど大変なんです。結局、この保管方法も出し入れという点では、紙媒体のスクラップと何ら変わりがありません。

そこで大いに役立つのが「文字起こし機能」です。全て「文字」で管理できますので、新聞記事の大量の文字も、MicrosoftのWord/WordPad/Excel(任意の使い慣れたソフト)に移し替えれば、1ページに約1000文字前後は収まりますから、スクラップなら2~3枚分、場合によっては3~5枚分くらいを移動できます。また、文字に置き換わることで、切り貼り、検索等も簡単で扱いやすくなります。一番良いのは、手軽に読みやすくなったことでしょうか。何せソフトを開ければそこは全て新聞記事の山!!!

「文字起こし」は、慣れるまで少し大変かもしれませんが、新聞を読んだ後、直ぐに「パチリ」(スマホでスキャン)、パソコンで何か作業した後。ついでに「文字起こし」作業という流れをつくってしまえば習慣化できます。

私の使い方以外にも何か独自のアイデアが出てくるかもしれません。

是非試してみては如何でしょうか?!

記述説明だけでは難しいようですので、動画にしてみました。ご参考になれば幸いです。👇

youtu.be

 

 

 

一家に一台 ウォーキングマシーン 続けることができてます(生活習慣病改善/全身の血流とリンパの流れが良くなるので美肌効果)

スポーツジムやフィットネスクラブに通うには、「気軽に」というわけにはなかなかいきません。自宅または通勤途上の最寄りに施設が存在ないと足が遠のきます。ましてや雨風の日、夏の猛暑、厳寒な冬は立ち寄ろうという意欲が低下します。もちろん会員料も発生します。

スポーツジムやフィットネスクラブって、”筋肉バリバリのボディビルダー”や”筋トレ愛好家”のイメージが強いですよね。メリットしては以下のとおり。

  1. 基礎代謝が増長し筋肉がつく
  2. 見た目が良くなる(若々しい風体なる)
  3. 健康になる(食欲がでる/食事内容が変わる)

男性的なイメージで記しているようですが、決してそんなことはなく、女性も含まれます。特に女性の場合は、以下の理由も含まれるんじゃないかと。

  1. 体重を減らしたい(体をひきしめたい)
  2. きれいな肌をつくりたいキープしたい
  3. 体調を整えたい(内臓、ひざ、腰、肩の痛みを改善したい)

実は私も数年前までは某クラブの会員でした。1年半くらい通いました。お恥ずかしい話ですが、一番利用した器具/施設は以下のとおりです。

  1. プール施設
  2. サウナ、温泉、シャワー
  3. 無し

初めのうちは張り切って、”腹筋ベンチ”や”ショルダープレス”などのいわゆる”筋トレ”に励んでいたのですが、次第に使いやすい”バイク”や”ランニングマシーン”に移っていき、挙句には「気持ちの良さ」から、プール、サウナで安らぎを求めることになっていきました。しかも、プールと云っても、専門的に水泳を習ったわけでもないですから、平泳ぎで一所懸命50M泳ぐのが精一杯。これを2本続ければ、ハイお終い!これですからね~。これで、”やった感”そして”達成感”があったわけですから・・・。そしてサウナ、温泉へ直行!

ただこの流れは、どうも私だけではなく、他の方々も同様だった気がします。なぜなら一番混んでた場所がこれらだったからです。(笑)しかも、年配者だらけ・・・。

 

方や、スポーツジムやフィットネスクラブでも、プール施設、サウナ/温泉を持たな処があります。専門性高いスポーツ/フィットネスマシーンのみを限定に、24時間年中無休をうたい、”真の筋トレ”者を追求するところです。

実に素晴らしい。”なんちゃって”はダメですね~。

 

こんな感じで、クラブ会員になった後は、体のシルエット、筋肉量は変わらず月日は経過しました。そして何より、会員でいることの矛盾を感じ脱会しました。

 

人それぞれですが、当初の意気込みや目的が削がれ、脱落され方も多いのではないでしょうか?それでも、私のような年配者は、”健康維持のために、老化防止のために定期的な運動をしたい”と思いますし、年配者に限らず運動不足を感じる30~50代の方でも”定期的な運動はしたい”と考えてらっしゃるのではないでしょうか。

クラブの会員を脱会後、また続けられるかどうか悩みましたが、思い切ってウォーキングマシーンを購入しました。理由は以下のとおりです。

  1. 季節にかかわらず、天気が悪い日でも、体調が良くないときでも、自宅でならやってみようという気分になる
  2. 定期的な運動は絶対必要で、病気に強くなる体を作る必要がある(毎日カロリーを消費することは重要)
  3. 全身の血流とリンパの流れが良くなる

中には、天気の良い日は散歩しているから大丈夫と自身のある方も・・・。

でも、舗装された道路をランニングしたり、ウォーキングしたりすると、実は足首やヒザ、そして腰にとっても負担がかかるんです。クッション性の高い運動靴を履いたりすることで回避できますが、関節等に不安がある人にとっては、それでも厳しい状況ですね。

続くかどうかわかりませんでしたが、使い始めてこの10月を経て丸3年、4年目を向かえました。一番有難く思う時期は、やはり真夏です。ウォーキングマシーンがあれば自宅で運動ができるので、エアコンのついた快適な空間でウォーキングができ、熱中症の心配がありません。

女性にとっても良いことがあります。歩くことで全身の7割の筋肉が集まる下半身に効果的に刺激を与えることができます。その結果、全身の血流とリンパの流れが良くなるので美肌効果が得られます。

最後に

雨の日でも歩行運動を行うことができるウォーキングマシンは、日々のカロリー消費を手伝ってくれる便利な器具です。継続して歩くことで、筋肉を刺激したり血行・血流が促進され、新陳代謝もアップしていきます。

医療の発達、栄養状態や衛生環境の改善などによって、人生は100年時代を迎えています。この100年を生き抜くための健康づくりは、本当に大切だと思っています。

確保するスペースさえ許せば、一家に一台ウォーキングマシーンは如何でしょうか!

思った以上に便利・快適です。

www.youtube.com

 

 

おもしろおかしく 企業の歴史と雑学

日本初のハンバーガーショップそしてファーストフードレストランは、1963年米国A&Wによって沖縄で始まりました。今現在も、エイアンドダブリュ沖縄(株)が27店舗を展開しています。ご存知でしたか?A&W沖縄 (awok.co.jp)

 

ファーストフードといえば、カリスマ経営者として知る人ぞ知る藤田田(ふじたでん)氏が、1971年日本マクドナルド、1989年日本トイザらス、1991年に日本ブロックバスターを創業・展開させたことはご存じのはずです。

藤田氏が米国よりフランチャイズ権を獲得した日本マクドナルドは、三越銀座店内に1号店をオープンさせました。ちなみに、舞台裏ではこのフランチャイズ権に対して争奪戦が行われました。ダイエーの中内功氏、すかいらーくグループ生みの親である横川家(4兄弟)の2組でした。

横川家といえば、周知のすかいらーくグループ。郊外型ファミリーレストランの先駆となったスカイラークは国立店が1号店です。記憶は不確かなのですが、”私の履歴書(日経新聞)”では、次兄が郊外型店舗の将来性を企図・展望し、国立店(スカイラーク1号店)を皮切りに、多摩地区 青梅街道地区、五日市街道地区など、立地展開(交通手段、人口分布、地域性等)を踏まえた戦略を投じていったと記憶しています。但しそこまでの道のりは順風満帆ではなく、長兄による資金繰り交渉(銀行等)の苦労話しや兄弟での意見の対立など、数々の苦労話もあったかと・・・面白かったな~。

1980年には練馬にジョナサン1号店、1982年ファミレスのイエスタディ、1986年中華のバーミヤン、さらに藍屋、夢庵など、外食産業における”すかいらーくグループ王国”を築き上げていきました。今でも現存する屋号は多いですね。

バブル崩壊後は、低価格路線へ踏み切って、ガストを小平にオープン。若者や子供連れのファンの心を掴み、”ガスト現象”などと呼ばれる大ブームを巻き起こしました。

ところで、”イエスタディ”ってご存知ですか?今はこの店舗ないんですね。私は学生のころ、上北台~玉川上水付近(上北台が正しい?)にある店舗に良く行ってました。おしゃれな雰囲気で、”コンセプトがアーリーアメリカン調のカジュアルレストラン”だったでしょうか。どれくらいの方々が覚えてらっしゃるか知りたいですね。

ところで、玉川上水って知ってます?読んで字のごとく、”水”がきれいなところなんです。お住いの方がおられたら”今更何ぞや”ですが、意外に知らない方がいるんじゃないかと・・・。現在でも東京都水道局の水道施設の一部として使わています。ちょっと見てみましょう。

👇上記写真は無断転用ではありません(AC利用)

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きれいですよね。かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用を指す)で、”東京6つの上水”の内の一つなんです。神田、本所、青山、三田、千川、そして玉川。

詳しく歴史等をお知りになりたい方は、東京都水道局の広報・広聴のページまで

👇

玉川上水の歴史 | 広報・広聴 | 東京都水道局

そう言えば、1980年代のこの周辺の道路は、多摩地域の公共交通を充実させるための”多摩都市モノレール開発”がなされていて、どこもかしこも虫食い状態の工事が露出していました。ちょっと土を掘ったら(掘削)そのまま、ちょとコンクリート壁(高架下の基本工事)を作ってそのまま、クルマで走行すればものの見事に”そのまま”状態だったことを記憶しています。1998年に”立川北~上北台”、その2年後に”多摩センター~立川北”間が無事に開通しました。

 

中内氏率いるダイエーは、1971年スーパー業界初の上場を果たします。翌年には天下の三越百貨店を売上高で抜き去り、さらに1980年小売業界初の1兆円(売上高)を超えるに至りました。当時の新聞などの見出しは凄いインパクトがありましたね。

ダイエーは1957年神戸で創業。阪神地区から全国展開を果たし、創業以来「価格破壊」を基本(お客様のために良い品をどんどん安く)に、矢継ぎ早に業態ブランドを投入していきました。1979年埼玉県”ビッグ・エー”大宮店、1980年岡山県”トポス”柳川店、1981年埼玉県”Dマート”草加(ダイエー店)などなど。

中でも、銀座の象徴となった銀座プランタン(4号店)は、ダイエーが百貨店事業へ進出するためフランスの老舗店と提携し、1984年銀座三丁目に開業・展開させた大型店です。銀座プランタンは、隆盛の後、ダイエーの経営悪化により、読売グループと三越伊勢丹グループの一員となります。そしてまだ鮮烈な印象として残っていると思われますが、惜しまれつつも2016年12月31日、その歴史に幕を閉じました。従業員みなさんのみならず当日来店されたお客様の涙ながらのインタビュー内容や従業員一同がお辞儀・お礼をしながらシャッターが閉まるその姿と瞬間に、こちらもほろっとさせられました。銀座に集合といえば、このプランタンか交通会館(現存)が主でしたので、今でも心に穴が空いた感じがします。

 

2011年三越と伊勢丹が合併しました。百貨店や小売りに精通した方ならうなずけると思いますが、百貨店といえば、”伊勢丹”、まずは”伊勢丹”を見習えが業界の流れ、合言葉でした。

伊勢丹は1886年呉服店を創業。1930年㈱伊勢丹となり、3年後に新宿を本店とします。その後全国展開を図り、伊勢丹会館、立川店、静岡店、松戸店、浦和店、新潟店、相模原店さらには海外へと進出していきました。

業界に見習えは、正しくは、「伊勢丹本店(新宿店)」に見習えです。”ファッションの伊勢丹”と言われたくらい、化粧品ブランド、アパレルブランドに関して、各メーカー、問屋の担当者はピリピリしていました。新宿店を大好きな方ならお分かりのとおり、本館1階から女性をターゲットにした化粧品関連グッズ等の販売スタイル、通称デパ地下の煌びやかなラインナップ、メンズ館の独立性豊かなエレガントな演出など、今も昔も変わらぬ美的センスを誇っています。これが、「本店」と言われるゆえんです。

それと、当時は労働組合が強く、労働時間管理の徹底、女性社員の地位向上(役割と権限)など、まさに現代企業ですら確立出来ていないような規律や行動指針が既に社内に徹底していました。少しオーバーかもしれませんが・・・。

三越は1673年創業。日本橋の呉服店「越後屋」は周知のところ。三越日本橋店は百貨店発祥の地。三井財閥がルーツですので、三越の社員の方や関係者から言わせれば、「老舗であり業界に対する影響力はこちらが大きく、ファッションショーを日本初で開いた先駆者もこちら。ゆえに小売業界のリーダーは三越である」とのプライドは過去も今もあるのではないでしょうか。

そんな三越と伊勢丹が合併したのですから、発表の2010年当時は驚きました。ただ内情を知ると、やはり業績不振に喘いでいた三越側が不利で、人事権含めた伊勢丹先導型で企画販売が進んできている様子でした。

 

閉店といえば、新型コロナウイルスの影響で首都圏、中でも東京における有名店や老舗が相次ぎ閉店しました。松井秀喜氏(巨人→ヤンキース)がジャイアンツ時代に通った神楽坂の居酒屋「もー吉」です。私は実際行ったことはないですが、神楽坂界隈はウロついてましたので、周知してました。神楽坂は早稲田通りを挟んで小路、路地裏の店に入るのが良いんですよね。”秘密の路地、秘密の部屋”ってちょっと意味深じゃありませんか。ちょっと見てみましょう。

👇有名な神楽坂毘沙門天

👇上記写真は無断転用ではありません(AC利用)

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静かな路地を一歩踏みこむとそこは別世界です。先述の”秘密の路地、秘密の部屋”は住宅街に隣接しており、「こんなところにお店があるんだ!」とビックリするようなロケーションです。

神楽坂付近は、大正時代に隆盛を誇った花街です。今でもその名残はあります。明治時代には700名の芸妓(芸者)がいたといわれています。しかし、昭和も終りになると料亭、芸妓数が減少し、今ではたまに見かける程度です。(何人かいらっしゃいますので、街ぐるみで支援しているのではないかと)

作家夏目漱石の父は、江戸の牛込から高田馬場までの一帯を保有していました。夏目漱石が良く通ったとされる老舗田原屋は2003年閉店しました。神楽坂を代表する洋食屋でした。

新型コロナウイルスは、新橋に通うサラリーマンのための老舗”大衆割烹 三州屋 ”をも襲いました。丁度半世紀、2020年10月に幕を閉じています。年季の入ったテーブルや内装が懐かしい。お世話になりました。

良くお土産用に利用した”鹿乃子銀座本店”が、74年の店舗営業を止めました。但し、一部オンライン販売(https://www.jreastmall.com/shop/c/c29)をしています。

コロナウィルス感染者がまた増加し、さらには重症化や死亡リスクが高まっています。みなさんお気をつけください。

 

冒頭のマクドナルドのフランチャイズ権利争いに敗れた中内社長は、独自にハンバーガーチェーンとして”ドムドムハンバーガー”をダイエー店舗内で展開していきました。1970年東京原町田店が1号店。(原町田は町田市にある)純国内のハンバーガー!ですよ。

1980年には拡大戦略のもと、米国ウェンディーズとフランチャイズ契約を結び、ドムドムバーガーを徐々にウェンディーズへ拡張する転換を図っていきました。共存による社内的な混乱のもと、ドムドムハンバーガーは㈱ドムドムフードサービスとして生き残り、純国内バーガーは保持しています。ドムドムハンバーガー【公式サイト】 (domdomhamburger.com)

一方で、ウェンディーズは、運営を㈱ウェンコ・ジャパンとし、1980年銀座、その後原宿店、青山店など東京の一等地を優先した事業展開を図りました。学生時代高田馬場で良く食べたピザ屋が確かウェンディーズだったような気がします。近くにHOYAクリスタルがあったような・・・。(HOYAの話は前のブログで話題にしています)

2002年ダイエーの子会社整理によって、ウェンコ・ジャパンやビッグボーイは㈱ゼンショーが引き受けました。ゼンショーは1982年横浜市鶴見区で創業。1987年すき家水戸店をオープン。2000年㈱ココスジャパンの株式を譲り受け、2002年はま寿司設立、2005年なか卯の譲り受けなど、業容拡大を行っています。

その後ウェンディーズはゼンショー傘下から離脱し日本を撤退したのち、2011年再進出を表参道店で図りました。しかしながら経営内容は悪く、2016年同業のファーストキッチンの全株式を取得し、ウェンディーズ・ファーストキッチとして生まれ変わり、現在に至っています。ちなみにファーストキッチンは1977年サントリーが池袋東武百貨店地下1階の営団地下鉄丸の内付近に1号店を開店させました。

池袋といえば、今でこそ地下街が発展し、地上とつながる経路がいくつもありますが、1970年代80年代は東武東上線と西武新宿線そしてJRくらいしかない、巨大ターミナル駅とは言えない汚い雰囲気の駅でした。現行の中央通路なんてありませんし、北と南の反対方向を歩くのは距離があってとても大変でした。

当時、池袋地下街で楽しみがありまして、名前は忘れましたが、今でいうキッチンコート的な立ち食いの”地下レストラン街”があり、うどん・そば、パスタ、焼きそば、カレーなどが販売されていました。焼きそばは相当デカイ鉄板で、大量の麺と野菜(肉はほぼなし)にどろっとしたソースで焼いてくれるのですが、お客様ごとに焼くのではなく一度に一気に大量に作り置きしてあります。この作り置きの時間経過で、麺が程よく蒸れて、何とも言えない”ほわほわ感”の感触を味わうことができるのです。1皿100円、ライス付きで150円くらいでしたでしょうか。またそば・うどん屋とは別のゾーンにサラダうどんを食べさせてくれる処がありまして、この野菜たっぷりの上に濃厚なオリジナルドレッシング(サウザンアイランド風)が程よくかかり、こしの強いうどんと相まって、これまたおいしいこと!この焼きそばとサラダうどん、もう1度だけ食べてみたいです~無理ですね~。

食レポついでに、高田馬場の宇宙会館というパチンコ屋がJR改札口を出て直ぐ左手にあったのですが、1980年代のこと。その脇道に入る処に立ち食いそば・うどん屋がありまして、うどんの場合、そばの時とは違うつゆを出してくれるんですね。その味が関西風でその香りと柔らかい味のおいしこと、おいしこと。年を経て何度か、早稲田通りをクルマで走行したことがありますが、パッと見では既に無い様子でした。悲しいです。畳2畳ほどの店舗でした。

あと関西味といえば、渋谷駅構内の”あじさい茶屋”という立ち食いそば・うどん屋があったのですが、2014年閉店となりました。この渋谷店は味を関東味か関西味か選別することができ、ここの関西味が薄口かつ香り良しで大好きでした。チェーン店ですが、他店とは味が違ったような気がします。私だけだったのでしょうか?

池袋駅の話に少しだけ戻りますが、よくこんなガラの悪い土地柄に立教大があるものだと驚きます。立教大学のホームページを見ますと1874年立教学校として創立し、1907年立教大学と命名、1918年に池袋移転と記されています。私が立教大学を直に見たのは大学受験の際に行った2回のみです。ペギー葉山の「つたのからまるチャペールで~」のイメージ通りの外見で、大変きれいなキャンパスだなと感じたことを覚えています。但し、この大学近辺は、西口公園を挟んで風俗店やキャバクラ等の歓楽街があります。かの有名な暴力団の本部事務所もあります。決してお世辞にも雰囲気が良い街並みとは言えません。立教大が先住者だったのでしょうか?

ここ10~15年の間に、池袋駅を含む都市構造の変換や駅施設および周辺市街地の再編、さらに文化・芸術等の創造/発信などがなされました。その結果、カルチャー都市としてのイメージが築き上げられ、多くの人にとって安心して楽しめる街になったようです。

1960~70年代、東武東上線は、川越がサツマイモの産地であり、そのいもを運んだことがあることから、”いも電”と呼ばれていました。しかし、”いも臭い”、これは東京都に対し埼玉県が「田舎っぽい、ダサい」ことから”いも”とすり替えられたのだと解釈しています。私は生まれが東京で埼玉に移り住んだのが小学校3年生の時なので、もともとの由来を正確に知っているわけではありませんが・・・。

👇池袋西口公園昼と夜

👇上記写真は無断転用ではありません(AC利用)

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ハンバーガーチェーンで一番好きなお店は、モスバーガーです。モスバーガーの1号店は東武東上線成増駅南口。当初は丸井成増店でした。丸井が成増にあったなんて、地元の住民か東上線を利用した乗客だけが知っていることですね。

モスバーガーは、マクドナルドやドムドムハンバーガーと時を同じくして展開してきましたが、他のチェーン店が価格競争に走る中、独自の高級志向と製造工程そして提供サービスを貫いてきた、経営センス抜群のチェーンショップです。

ハンバーガーの間からこぼれ滴るソースをすすりながら食べる深い味わいと、レタスやトマトなど野菜がシャキシャキしていて、これまたソースとマッチした何とも言えない噛み応えとその美味しさは、オリジナルモスバーガーの原点です。

モスバーガークラシックって知ってますか?ここは都営大江戸線牛込神楽坂から徒歩5分程度のところにありました。過去形ですので既に閉店しています(2012年)。マックのダブルバーガーの中身をさらに倍増した高さくらいのハンバーガーが出てきます。セットメニューで1500円前後だったでしょうか。フォーク&ナイフを使用して食べるのですが、皿の上でボロボロになってしまいます。通常のモスバーガーとは全くイメージも味も違いましたが、経験という意味で良かったのかもしれません。

 

冒頭、1971年日本マクドナルド、1989年日本トイザらス、1991年に日本ブロックバスターを創業・展開させた藤田田氏の話をしましたが、みなさん日本ブロックバスターをご存知でしょうか?医薬品のブロックバスター(新薬)のことではありません。

最盛期となった2000年の初頭(2002~2004年頃)、世界9000店舗以上を展開させたビデオやDVDをレンタルサービスする米国企業ブロックバスターの日本法人のことです。当時、あの”Netflix”さえも凌駕していました。

このブロックバスターが1980年代後半に日本進出。1982年創業の蔦屋書店(大阪府枚方市{ひらかた})率いるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(1985年設立のレコード・ビデオレンタル)などと熾烈な競争をすることとなりました。愛知県から参入した㈱ゲオは1990年過ぎから販売網を広げていき、この3社の中で、価格競争に敗れたブロックバスターは1999年ゲオ傘下となりました。

ダイエーの経営再建を果たせなかった創業者の中内氏は、2001年経営責任を取って会長の座を降りました。一足早く、1995年頃にはダイエーの経営層および幹部層は、セントラル経営(中央集権)に反対し大量離脱が始まっていました。

日産自動車は、1985年石原氏が社長の座を久米氏にバトンタッチ。技術職ならではの手腕で、インフィニティQ45、Y31型セドリック&グローリア、さらにインフィニティの投入を矢継ぎ早に実施しましたが、その後ミドルグレード車種の開発遅延や軽自動車の販売不振等をカバーできないうえ、強力な労働組合による経営施策への反対にもあい、人員削減含めた抜本的改革とコスト削減もままならないまま財務内容が悪化していきました。

1999年仏ルノーと資本提携するまでの間、すでに社内は大混乱していました。この年、6月にルノー副社長のカルロス・ゴーンが最高執行責任者(COO)が就任し、経営再建計画である「日産リバイバルプラン」を発表したのは世界の人が知る史実です。

 

1973年の第一次オイルショック以降、高度経済成長時代は終焉したものの、新たな産業がけん引し、中でもコンピューター分野の伸張により日本は安定成長にはいります。しかしながら、1985年のプラザ合意以降、円相場が上昇、もともと土地の高騰、株価(日経平均)の上昇が続いていましたが、これがバブルであることに気づく国民は少なく、政府においてもこの円高不況に対する的確な政策を立案実行できないまま1990年を迎え、日銀総裁三重野氏による急激な金融引き締め政策が引き金となって、以降日本は10年を超える景気後退につながることとなるのでした。

このような環境下、1995年前後、日本ブロックバスターから、ダイエーから、日産自動車から幹部層を受け入れた企業がありました。ミスターミニットです。国内ではダイエーと共に成長し躍進を遂げてきました。1972年三越日本橋店、高島屋日本橋をオープン、その後ピーク時まで国内約800店舗を展開していました。現在は、青山商事㈱の完全子会社として国内300店、アジア、オーストラリアなど6ヵ国600店舗を展開しています。当時はベルギーを本社とする外資系でしたが、今は国内企業としてショップネットワークを展開しています。(前回のブログご参考)

ここまで、外資を取り入れ、または外資を排し、規模拡大や業態変更、または資本参加、離脱、縮小、解散、倒産等、繰り返してきた様々な企業をご紹介してきました。

特に、カリスマ的経営者に翻弄された企業、方や他社との差別化を図り戦略的に成功をおさめた経営手腕の光る企業、その辿る道は違っていたかもしれません。但し、政治・経済の大きな渦に呑み込まれる時もあります。

結果は斯様に見えますが、未来は見えません。わかりません。しかし、誰一人として未来を否定することはありません。明日を信じ、夢見て活動していきます。明日のために、明日良いことがあると信じて。

最後になりますが、アンナミラーズご存知でしょうか?ドイツの民族衣装に似せたミニスカート姿のウェイトレスが店内で待ち受け、接客してくれるお洒落なお店。男性諸氏にはこたえられないですね。初めて入った時は目のやり場に困りました。1973年青山が1号店ですが、やはり青山と原宿が有名ですね。今はオンラインのみの展開みたいです。ちょっと寂しいでしょうか。思い出したので、記しておきます。

annamillersrestaurant.jp

長文お読みいただきありがとうございました。おわり

よろしかったら👇こちらもお立ち寄りを

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お風呂場で☆になりたくない!

お題「これまで生きてきて「死ぬかと思った」瞬間はありますか?身体的なものでも精神的なものでも」

 

夏場、シャワー派ですので、お風呂に浸かることがありません。そのため、シャワーを浴びた後、家族のために前日の残り湯を抜きながら、浴室内の掃除を素っ裸でするのが日課でした。

その日は、天井の汚れも気になって、イスを台にして天井掃除をすることに。はじめは調子よくゴシゴシ出来たのですが、やや手が届かない箇所が増えたので、本来一端降りて、イスをずらして再開すれば良いものを、無理して乗ったまま移動したその瞬間、ガン~。

一瞬で、ひっくり返りました。ほんの一瞬にもかかわらず、走馬灯のように「あっ!駄目だ!もう死んだな!」「ここは、あの世だな!」こんな記憶が去来したのです。

流石に凄い音だったらしく、女房が吹っ飛んできて、「どうしたの?!」。

この声に、「あっ、もしかしたら生きてるかもしれない」と感じ、冷静に自分が置かれた状態、これは素っ裸で横たわっている状態を発見し、「おー、何とか大丈夫だ。ちょっと滑っただけだよ」と応答できる自分がいました。

もちろん転倒の瞬間、何も覚えてはいません。

打撃カ所は、首と肩、主に肩にあざができてました。浴室のシャワー水栓蛇口の部分に当たったわけですから、当然頭もぶつけていますが、ダメージは肩のみだったのです。

「九死に一生を得る」の表現を使うほどのシチュエーションではありませんが、生死を分けた出来事でした。

ちなみに、浴室のシャワー水栓蛇口は一部陥没、あと足で蹴りが入ったらしく、浴室ドア(プラスチック製)が亀裂してました。

 

夏の出来事でした。

 

 

楽に仕事ができる習慣 仕事はできないよりできる方が良い その2

【日常行動様式4原則】習慣化してこそ行動できる!

  1. 毎日新聞を読む(WEBもOK)

  2. スマホ&パソコンをとことん使いこなす

  3. 「何故 なぜ?」を常に考える

  4. 自責思考を常にもつ

3.「何故 なぜ?」を常に考える

自分の幼少時代はどうだったろうか?自分の子が小さい時はどうだったろうか?

私自身はその記憶が非常に曖昧です。「え~、どうして?何で?」の言葉について・・・。

この言葉で大人を質問攻めにする年代があると言います。子どもによってもちろん差がありますが、おおよそ3~10歳の時期に著しく脳が発達するそうです。「え~、どうして?何で?」を連発し親を困らせた子どもって、今どんな人生を歩んでいるのでしょうか?脳みそを沢山つかう仕事や環境に身を置いているのでしょうか。

当たり前ですが、幼少期は人生経験がありません。様々な体験を通して学習していきます。その源は、”わからないから知りたい、知らないから理解したい”、などの好奇心、探求心からくるものです。やがて、表現力、想像力、創造力、思考力など脳のなかでこれらが、カスタマイズされていきます。

誰しもが持っている(持っていた)このサイクル、非常にうらやましいですね。自分は”持っていた”の年齢になってしまいましたが、”持っている”の年齢(50歳前後?)のみなさんはまだまだ学習能力はあると思います。良く50歳過ぎからでも脳は鍛えられると言われていますが、それは事実だと思います。

先に記した幼少期の「え~、どうして?何で?」という”好奇心や探求心”に対し、私たちは自らブレーキをかけている(た)のかも知れません。おそらく大人になるにつれて既知の知識や経験で行動することが普通になり、さらにその行動をとるための算段に能力をつかうことが増え、何でも計画的にそして効率的にやっていこう、動いていこうという行動様式が、”好奇心や探求心”という思考を置き去りにしてきたのです。

大人になった過程で已む無しと思うか、いや勿体ないと思うか、ここがポイントです。何せ、みなさん全ての方に備わっている能力(学習)ですから。

そうです。勿体ないです!はい、復活させましょう!

  1. 「好奇心・探求心」というこの言葉を毎日、心の中で唱える
  2. 少しでも疑問に思ったら、書く、言う、聞く、調べる

だまされたと思って、しばらく続けてください。変わってきます。

これにより、凝り固まっていた思考パターンや行動パターンが大きく変わります。会議中、何となく聞いていた話も、「おや 矛盾したこと言ってるな?ちょっと調査不足だな?要点があいまいだな?」など、いつもの自分なら気づかなかったこと、意識しなかったことが見えてきます。また、見えてきたことに加え、やはり確認してみたい、意見したいなど、消極的・受動的な立場にいた自分が徐々にですが積極的・能動的なアクションをとれるようになってきます。

4.自責思考を常にもつ

自責とは、自分をせめてみじめな気持ちになることではなく、自分にも責任の一端があるのではないかと考え直すことを指します。
人のせい(他責)にすること、すなわち責任転嫁することが少なくなれば、自身の判断力や解決力が自ずと高まります。そうでなければ、問題の解決策はほぼ他人任せになりがちとなるのです。

心理学的には、子どもから大人へと成長する過程(おおよそ15~20歳前後)で、「自己中心性」という思考を有するようになるとあります。自己中心性とは、他人を区別することができず、他人の心情などを客観的に考えることができないことを指すと。

では幼児期の”わがまま”と、この場合とどう違うのでしょうか?

私は違いはなく、寧ろ幼児期の段階で自己中心性は表面化し、環境によって変化するものだと考えます。自分の立場でしか物事をみれない思考/性格、一方他者の視点から物事をみれるようになる思考/性格は、思春期・青年期において変化させようと思っても自身の力では相当難しいであろうと感じます。他者からの忠告・意見・指導や衝撃的な出来事があって初めて気づくことではないでしょうか。

砂場遊びやおもちゃ遊びなど幾人かの友だちと遊んでいれば、必ず揉め事がおきます。おもちゃの取り合いや砂かけなど。こんな時、親や先生が「もし○○ちゃんだったら、このことどう思うかな?」と投げかけをしたり、考えさせることで徐々に本人の思考の変化がでてきます。なにも自己(わがまま)を無くせということではなく、他の子の立場を考えようという指導教育の範囲です。

では、自己中心性を保持したまま大人に社会人になった者は治らないのか?もしくはそれと気づかないのか?

いえ、大丈夫です。次のことを行ってください。

  • 他人評価を受け自分を知る

一択です!辛く大変なことですが、自身の思っている自分と他人が感じている自分を正しく把握することで、今後の行動が変わってきます。ヒアリングする相手は、複数が良いでしょう。親、兄弟、知人、同僚、先輩、上司など出来る限り数多くの方にヒアリングしてください。直ぐにあなた自身の「自責」「他責」度合いがわかります。

  1. 人の意見などをよく聞く
  2. 素直さや謙虚さがある
  3. 愚痴をこぼすことは少ない

該当する○が多いなら「自責」、×が多いなら「他責」です。

「他責」と判断された方は、今から自分を変えていきましょう。以下の2っのポイントを徐々に実践していきましょう。言うは易く行うは難しです。焦らず、事象発生ごとにこの2点を思い出し実践してみてください。

  • 他人の”せい”で終わらせない”ひとごと”ではなく”自分ごと”として置き換える
  • ミス、失敗、クレームなど同様の間違いや誤りを繰り返さない算段を考える

ここで2冊、関連本を紹介させていただきます。本の要約などはいたしません。ご自身でお読みいただき、ご自身で感じとってください。簡単な紹介だけさせていただきます。

 

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

これは、松下幸之助さんの「素直な心になるために」です。改めて説明する必要性もありませんね。私はいつも読み返しています。

お薦め度☆☆☆ 人によっては読みづらいかもしれません。

 

2冊目は、実践書です。「自責社員と他責社員(経営者新書)」これは管理職者用に書かれていますが、寧ろ若い人が読んで、上司や幹部クラスがどのように社員と業務のことを考えているのかを知れる良書です。そして何より「自責/他責」を知る絶好のチャンスです。

お薦め度☆☆☆☆4つ星です!

 

「正直(素直)、謙虚、好奇心旺盛」をスローガンとしたアパレル企業に就職した1980年代、多義にわたるファッションブームが巻き起こっていました。竹の子族、DCブランド、渋カジ、ハマトラなどなど、年配者にとっては懐かしい、そうでない方は?かもしれません。

この頃の大学は、授業があるかどうかは学校の掲示板を見ない限り知る由もない時代でした。携帯電話ない、パソコンない、電子手帳ない、ないないづくしです。不真面目な学生でしたので、娯楽といえば、麻雀、パチンコ、ビリヤード、ボーリング。学校近くはほぼ麻雀屋ばっかりです。授業があってもなくても麻雀。今振り返るとこの入り浸りの場所、麻雀屋、パチンコ屋、食堂、学生会館(クラブ、サークルが所有する部屋のある建物)が人と人が出会う、通信(?)手段だったのかもしれません。このどこかに行けば、誰か知り合いがいる。その知り合いに聞けば、誰が今どうしている!かわかる。

あっ、あともう1カ所ありました。下宿生のところです。ここを根城にして、楽しい学生生活を送れたと言っても過言ではありません。学校周辺に下宿している友人は意外に少なく、西武新宿線の沿線上のアパート住まいが一番多かったですね。下落合、中井、沼袋、野方です。こっから先は遠いのでほぼいませんでした。

当時の機器は、校門近くの店屋のコピー機です。私のようなぼんくら学生は、真面目で優秀な学生の講義ノートを借りてコピーさせてもらうんです。何せ授業に出席してないものですから・・・。

本当に信じられないでしょうが、未だに単位不足で「ああ、卒業できない!」って夢を見るんですよ。そこまでひどかったかな~と思うんですが・・・。

その当時、前期・後期の試験があり、学生がバイトで試験官をするのですが、サンプラザ中野くんがバイトやってましたね。学ラン着てました。

掲示板を見ないと、授業の有無、その他スケジュールなど何もわからない時代。就職課(キャリアセンターというのかしら)も然り。単に企業あっせんのペラ用紙が何枚も貼ってあるだけで、学生はそれを見て企業に連絡をとるんです。もちろんパソコンはありませんから、簡単に企業研究はできません。本当にどうやって調べたんでしょうね。私自身良く覚えていません。逆に、ポスターサイズの用紙に手書きで作った”人気企業ランキング○○位”が目に留まったイメージがあります。

バブル崩壊前でしたので、大手中心に証券会社は人気がありました。また大手アパレル企業も上位にいました。これに釣られた私もいました。特段後悔している訳ではありませんが、本社ビルが中落合にあったHOYA㈱は当時内定をもらったんですが辞退しました。イメージは”保谷ガラス”しかなく、まさかこんな企業になるとは・・・。前回、任天堂の話を少ししましたが、こちらは先見の明がない方でした。

ジョルジオ・アルアーニ、コム・デ・ギャルソン、コムサ・デ・モード、アンダーカバー、イッセイ・ミヤケ、ヨウジ・ヤマモト、ケンゾーなどのDCブーム(デザイナーブランド)はバブルの象徴だったのでしょうか。自社製品の服を着て販売する”ハウスマヌカン”のイメージは憧れの的だった一方、コミカルな演歌風の曲(「夜霧のハウスマヌカン」やや)も時代の証として記憶にあります。

ただこれ以降、DCブームは去り、同時に大手メーカー、レナウン、ダーバン、VAN、JUNなど終焉迎える時代がすぐそこに来ていました。

また何だか、わけわからない内容になってきました。脱線しすぎです。

本当は、「その3、その4」を考えていたのですが、お題は改めて練りたいと思いますので、『楽に仕事ができる習慣 仕事はできないよりできた方が良い』はこれにて完結とさせていただきます。

ありがとうございました。

 

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