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おもしろおかしく 企業の歴史と雑学

日本初のハンバーガーショップそしてファーストフードレストランは、1963年米国A&Wによって沖縄で始まりました。今現在も、エイアンドダブリュ沖縄(株)が27店舗を展開しています。ご存知でしたか?A&W沖縄 (awok.co.jp)

 

ファーストフードといえば、カリスマ経営者として知る人ぞ知る藤田田(ふじたでん)氏が、1971年日本マクドナルド、1989年日本トイザらス、1991年に日本ブロックバスターを創業・展開させたことはご存じのはずです。

藤田氏が米国よりフランチャイズ権を獲得した日本マクドナルドは、三越銀座店内に1号店をオープンさせました。ちなみに、舞台裏ではこのフランチャイズ権に対して争奪戦が行われました。ダイエーの中内功氏、すかいらーくグループ生みの親である横川家(4兄弟)の2組でした。

横川家といえば、周知のすかいらーくグループ。郊外型ファミリーレストランの先駆となったスカイラークは国立店が1号店です。記憶は不確かなのですが、”私の履歴書(日経新聞)”では、次兄が郊外型店舗の将来性を企図・展望し、国立店(スカイラーク1号店)を皮切りに、多摩地区 青梅街道地区、五日市街道地区など、立地展開(交通手段、人口分布、地域性等)を踏まえた戦略を投じていったと記憶しています。但しそこまでの道のりは順風満帆ではなく、長兄による資金繰り交渉(銀行等)の苦労話しや兄弟での意見の対立など、数々の苦労話もあったかと・・・面白かったな~。

1980年には練馬にジョナサン1号店、1982年ファミレスのイエスタディ、1986年中華のバーミヤン、さらに藍屋、夢庵など、外食産業における”すかいらーくグループ王国”を築き上げていきました。今でも現存する屋号は多いですね。

バブル崩壊後は、低価格路線へ踏み切って、ガストを小平にオープン。若者や子供連れのファンの心を掴み、”ガスト現象”などと呼ばれる大ブームを巻き起こしました。

ところで、”イエスタディ”ってご存知ですか?今はこの店舗ないんですね。私は学生のころ、上北台~玉川上水付近(上北台が正しい?)にある店舗に良く行ってました。おしゃれな雰囲気で、”コンセプトがアーリーアメリカン調のカジュアルレストラン”だったでしょうか。どれくらいの方々が覚えてらっしゃるか知りたいですね。

ところで、玉川上水って知ってます?読んで字のごとく、”水”がきれいなところなんです。お住いの方がおられたら”今更何ぞや”ですが、意外に知らない方がいるんじゃないかと・・・。現在でも東京都水道局の水道施設の一部として使わています。ちょっと見てみましょう。

👇上記写真は無断転用ではありません(AC利用)

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きれいですよね。かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用を指す)で、”東京6つの上水”の内の一つなんです。神田、本所、青山、三田、千川、そして玉川。

詳しく歴史等をお知りになりたい方は、東京都水道局の広報・広聴のページまで

👇

玉川上水の歴史 | 広報・広聴 | 東京都水道局

そう言えば、1980年代のこの周辺の道路は、多摩地域の公共交通を充実させるための”多摩都市モノレール開発”がなされていて、どこもかしこも虫食い状態の工事が露出していました。ちょっと土を掘ったら(掘削)そのまま、ちょとコンクリート壁(高架下の基本工事)を作ってそのまま、クルマで走行すればものの見事に”そのまま”状態だったことを記憶しています。1998年に”立川北~上北台”、その2年後に”多摩センター~立川北”間が無事に開通しました。

 

中内氏率いるダイエーは、1971年スーパー業界初の上場を果たします。翌年には天下の三越百貨店を売上高で抜き去り、さらに1980年小売業界初の1兆円(売上高)を超えるに至りました。当時の新聞などの見出しは凄いインパクトがありましたね。

ダイエーは1957年神戸で創業。阪神地区から全国展開を果たし、創業以来「価格破壊」を基本(お客様のために良い品をどんどん安く)に、矢継ぎ早に業態ブランドを投入していきました。1979年埼玉県”ビッグ・エー”大宮店、1980年岡山県”トポス”柳川店、1981年埼玉県”Dマート”草加(ダイエー店)などなど。

中でも、銀座の象徴となった銀座プランタン(4号店)は、ダイエーが百貨店事業へ進出するためフランスの老舗店と提携し、1984年銀座三丁目に開業・展開させた大型店です。銀座プランタンは、隆盛の後、ダイエーの経営悪化により、読売グループと三越伊勢丹グループの一員となります。そしてまだ鮮烈な印象として残っていると思われますが、惜しまれつつも2016年12月31日、その歴史に幕を閉じました。従業員みなさんのみならず当日来店されたお客様の涙ながらのインタビュー内容や従業員一同がお辞儀・お礼をしながらシャッターが閉まるその姿と瞬間に、こちらもほろっとさせられました。銀座に集合といえば、このプランタンか交通会館(現存)が主でしたので、今でも心に穴が空いた感じがします。

 

2011年三越と伊勢丹が合併しました。百貨店や小売りに精通した方ならうなずけると思いますが、百貨店といえば、”伊勢丹”、まずは”伊勢丹”を見習えが業界の流れ、合言葉でした。

伊勢丹は1886年呉服店を創業。1930年㈱伊勢丹となり、3年後に新宿を本店とします。その後全国展開を図り、伊勢丹会館、立川店、静岡店、松戸店、浦和店、新潟店、相模原店さらには海外へと進出していきました。

業界に見習えは、正しくは、「伊勢丹本店(新宿店)」に見習えです。”ファッションの伊勢丹”と言われたくらい、化粧品ブランド、アパレルブランドに関して、各メーカー、問屋の担当者はピリピリしていました。新宿店を大好きな方ならお分かりのとおり、本館1階から女性をターゲットにした化粧品関連グッズ等の販売スタイル、通称デパ地下の煌びやかなラインナップ、メンズ館の独立性豊かなエレガントな演出など、今も昔も変わらぬ美的センスを誇っています。これが、「本店」と言われるゆえんです。

それと、当時は労働組合が強く、労働時間管理の徹底、女性社員の地位向上(役割と権限)など、まさに現代企業ですら確立出来ていないような規律や行動指針が既に社内に徹底していました。少しオーバーかもしれませんが・・・。

三越は1673年創業。日本橋の呉服店「越後屋」は周知のところ。三越日本橋店は百貨店発祥の地。三井財閥がルーツですので、三越の社員の方や関係者から言わせれば、「老舗であり業界に対する影響力はこちらが大きく、ファッションショーを日本初で開いた先駆者もこちら。ゆえに小売業界のリーダーは三越である」とのプライドは過去も今もあるのではないでしょうか。

そんな三越と伊勢丹が合併したのですから、発表の2010年当時は驚きました。ただ内情を知ると、やはり業績不振に喘いでいた三越側が不利で、人事権含めた伊勢丹先導型で企画販売が進んできている様子でした。

 

閉店といえば、新型コロナウイルスの影響で首都圏、中でも東京における有名店や老舗が相次ぎ閉店しました。松井秀喜氏(巨人→ヤンキース)がジャイアンツ時代に通った神楽坂の居酒屋「もー吉」です。私は実際行ったことはないですが、神楽坂界隈はウロついてましたので、周知してました。神楽坂は早稲田通りを挟んで小路、路地裏の店に入るのが良いんですよね。”秘密の路地、秘密の部屋”ってちょっと意味深じゃありませんか。ちょっと見てみましょう。

👇有名な神楽坂毘沙門天

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静かな路地を一歩踏みこむとそこは別世界です。先述の”秘密の路地、秘密の部屋”は住宅街に隣接しており、「こんなところにお店があるんだ!」とビックリするようなロケーションです。

神楽坂付近は、大正時代に隆盛を誇った花街です。今でもその名残はあります。明治時代には700名の芸妓(芸者)がいたといわれています。しかし、昭和も終りになると料亭、芸妓数が減少し、今ではたまに見かける程度です。(何人かいらっしゃいますので、街ぐるみで支援しているのではないかと)

作家夏目漱石の父は、江戸の牛込から高田馬場までの一帯を保有していました。夏目漱石が良く通ったとされる老舗田原屋は2003年閉店しました。神楽坂を代表する洋食屋でした。

新型コロナウイルスは、新橋に通うサラリーマンのための老舗”大衆割烹 三州屋 ”をも襲いました。丁度半世紀、2020年10月に幕を閉じています。年季の入ったテーブルや内装が懐かしい。お世話になりました。

良くお土産用に利用した”鹿乃子銀座本店”が、74年の店舗営業を止めました。但し、一部オンライン販売(https://www.jreastmall.com/shop/c/c29)をしています。

コロナウィルス感染者がまた増加し、さらには重症化や死亡リスクが高まっています。みなさんお気をつけください。

 

冒頭のマクドナルドのフランチャイズ権利争いに敗れた中内社長は、独自にハンバーガーチェーンとして”ドムドムハンバーガー”をダイエー店舗内で展開していきました。1970年東京原町田店が1号店。(原町田は町田市にある)純国内のハンバーガー!ですよ。

1980年には拡大戦略のもと、米国ウェンディーズとフランチャイズ契約を結び、ドムドムバーガーを徐々にウェンディーズへ拡張する転換を図っていきました。共存による社内的な混乱のもと、ドムドムハンバーガーは㈱ドムドムフードサービスとして生き残り、純国内バーガーは保持しています。ドムドムハンバーガー【公式サイト】 (domdomhamburger.com)

一方で、ウェンディーズは、運営を㈱ウェンコ・ジャパンとし、1980年銀座、その後原宿店、青山店など東京の一等地を優先した事業展開を図りました。学生時代高田馬場で良く食べたピザ屋が確かウェンディーズだったような気がします。近くにHOYAクリスタルがあったような・・・。(HOYAの話は前のブログで話題にしています)

2002年ダイエーの子会社整理によって、ウェンコ・ジャパンやビッグボーイは㈱ゼンショーが引き受けました。ゼンショーは1982年横浜市鶴見区で創業。1987年すき家水戸店をオープン。2000年㈱ココスジャパンの株式を譲り受け、2002年はま寿司設立、2005年なか卯の譲り受けなど、業容拡大を行っています。

その後ウェンディーズはゼンショー傘下から離脱し日本を撤退したのち、2011年再進出を表参道店で図りました。しかしながら経営内容は悪く、2016年同業のファーストキッチンの全株式を取得し、ウェンディーズ・ファーストキッチとして生まれ変わり、現在に至っています。ちなみにファーストキッチンは1977年サントリーが池袋東武百貨店地下1階の営団地下鉄丸の内付近に1号店を開店させました。

池袋といえば、今でこそ地下街が発展し、地上とつながる経路がいくつもありますが、1970年代80年代は東武東上線と西武新宿線そしてJRくらいしかない、巨大ターミナル駅とは言えない汚い雰囲気の駅でした。現行の中央通路なんてありませんし、北と南の反対方向を歩くのは距離があってとても大変でした。

当時、池袋地下街で楽しみがありまして、名前は忘れましたが、今でいうキッチンコート的な立ち食いの”地下レストラン街”があり、うどん・そば、パスタ、焼きそば、カレーなどが販売されていました。焼きそばは相当デカイ鉄板で、大量の麺と野菜(肉はほぼなし)にどろっとしたソースで焼いてくれるのですが、お客様ごとに焼くのではなく一度に一気に大量に作り置きしてあります。この作り置きの時間経過で、麺が程よく蒸れて、何とも言えない”ほわほわ感”の感触を味わうことができるのです。1皿100円、ライス付きで150円くらいでしたでしょうか。またそば・うどん屋とは別のゾーンにサラダうどんを食べさせてくれる処がありまして、この野菜たっぷりの上に濃厚なオリジナルドレッシング(サウザンアイランド風)が程よくかかり、こしの強いうどんと相まって、これまたおいしいこと!この焼きそばとサラダうどん、もう1度だけ食べてみたいです~無理ですね~。

食レポついでに、高田馬場の宇宙会館というパチンコ屋がJR改札口を出て直ぐ左手にあったのですが、1980年代のこと。その脇道に入る処に立ち食いそば・うどん屋がありまして、うどんの場合、そばの時とは違うつゆを出してくれるんですね。その味が関西風でその香りと柔らかい味のおいしこと、おいしこと。年を経て何度か、早稲田通りをクルマで走行したことがありますが、パッと見では既に無い様子でした。悲しいです。畳2畳ほどの店舗でした。

あと関西味といえば、渋谷駅構内の”あじさい茶屋”という立ち食いそば・うどん屋があったのですが、2014年閉店となりました。この渋谷店は味を関東味か関西味か選別することができ、ここの関西味が薄口かつ香り良しで大好きでした。チェーン店ですが、他店とは味が違ったような気がします。私だけだったのでしょうか?

池袋駅の話に少しだけ戻りますが、よくこんなガラの悪い土地柄に立教大があるものだと驚きます。立教大学のホームページを見ますと1874年立教学校として創立し、1907年立教大学と命名、1918年に池袋移転と記されています。私が立教大学を直に見たのは大学受験の際に行った2回のみです。ペギー葉山の「つたのからまるチャペールで~」のイメージ通りの外見で、大変きれいなキャンパスだなと感じたことを覚えています。但し、この大学近辺は、西口公園を挟んで風俗店やキャバクラ等の歓楽街があります。かの有名な暴力団の本部事務所もあります。決してお世辞にも雰囲気が良い街並みとは言えません。立教大が先住者だったのでしょうか?

ここ10~15年の間に、池袋駅を含む都市構造の変換や駅施設および周辺市街地の再編、さらに文化・芸術等の創造/発信などがなされました。その結果、カルチャー都市としてのイメージが築き上げられ、多くの人にとって安心して楽しめる街になったようです。

1960~70年代、東武東上線は、川越がサツマイモの産地であり、そのいもを運んだことがあることから、”いも電”と呼ばれていました。しかし、”いも臭い”、これは東京都に対し埼玉県が「田舎っぽい、ダサい」ことから”いも”とすり替えられたのだと解釈しています。私は生まれが東京で埼玉に移り住んだのが小学校3年生の時なので、もともとの由来を正確に知っているわけではありませんが・・・。

👇池袋西口公園昼と夜

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ハンバーガーチェーンで一番好きなお店は、モスバーガーです。モスバーガーの1号店は東武東上線成増駅南口。当初は丸井成増店でした。丸井が成増にあったなんて、地元の住民か東上線を利用した乗客だけが知っていることですね。

モスバーガーは、マクドナルドやドムドムハンバーガーと時を同じくして展開してきましたが、他のチェーン店が価格競争に走る中、独自の高級志向と製造工程そして提供サービスを貫いてきた、経営センス抜群のチェーンショップです。

ハンバーガーの間からこぼれ滴るソースをすすりながら食べる深い味わいと、レタスやトマトなど野菜がシャキシャキしていて、これまたソースとマッチした何とも言えない噛み応えとその美味しさは、オリジナルモスバーガーの原点です。

モスバーガークラシックって知ってますか?ここは都営大江戸線牛込神楽坂から徒歩5分程度のところにありました。過去形ですので既に閉店しています(2012年)。マックのダブルバーガーの中身をさらに倍増した高さくらいのハンバーガーが出てきます。セットメニューで1500円前後だったでしょうか。フォーク&ナイフを使用して食べるのですが、皿の上でボロボロになってしまいます。通常のモスバーガーとは全くイメージも味も違いましたが、経験という意味で良かったのかもしれません。

 

冒頭、1971年日本マクドナルド、1989年日本トイザらス、1991年に日本ブロックバスターを創業・展開させた藤田田氏の話をしましたが、みなさん日本ブロックバスターをご存知でしょうか?医薬品のブロックバスター(新薬)のことではありません。

最盛期となった2000年の初頭(2002~2004年頃)、世界9000店舗以上を展開させたビデオやDVDをレンタルサービスする米国企業ブロックバスターの日本法人のことです。当時、あの”Netflix”さえも凌駕していました。

このブロックバスターが1980年代後半に日本進出。1982年創業の蔦屋書店(大阪府枚方市{ひらかた})率いるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(1985年設立のレコード・ビデオレンタル)などと熾烈な競争をすることとなりました。愛知県から参入した㈱ゲオは1990年過ぎから販売網を広げていき、この3社の中で、価格競争に敗れたブロックバスターは1999年ゲオ傘下となりました。

ダイエーの経営再建を果たせなかった創業者の中内氏は、2001年経営責任を取って会長の座を降りました。一足早く、1995年頃にはダイエーの経営層および幹部層は、セントラル経営(中央集権)に反対し大量離脱が始まっていました。

日産自動車は、1985年石原氏が社長の座を久米氏にバトンタッチ。技術職ならではの手腕で、インフィニティQ45、Y31型セドリック&グローリア、さらにインフィニティの投入を矢継ぎ早に実施しましたが、その後ミドルグレード車種の開発遅延や軽自動車の販売不振等をカバーできないうえ、強力な労働組合による経営施策への反対にもあい、人員削減含めた抜本的改革とコスト削減もままならないまま財務内容が悪化していきました。

1999年仏ルノーと資本提携するまでの間、すでに社内は大混乱していました。この年、6月にルノー副社長のカルロス・ゴーンが最高執行責任者(COO)が就任し、経営再建計画である「日産リバイバルプラン」を発表したのは世界の人が知る史実です。

 

1973年の第一次オイルショック以降、高度経済成長時代は終焉したものの、新たな産業がけん引し、中でもコンピューター分野の伸張により日本は安定成長にはいります。しかしながら、1985年のプラザ合意以降、円相場が上昇、もともと土地の高騰、株価(日経平均)の上昇が続いていましたが、これがバブルであることに気づく国民は少なく、政府においてもこの円高不況に対する的確な政策を立案実行できないまま1990年を迎え、日銀総裁三重野氏による急激な金融引き締め政策が引き金となって、以降日本は10年を超える景気後退につながることとなるのでした。

このような環境下、1995年前後、日本ブロックバスターから、ダイエーから、日産自動車から幹部層を受け入れた企業がありました。ミスターミニットです。国内ではダイエーと共に成長し躍進を遂げてきました。1972年三越日本橋店、高島屋日本橋をオープン、その後ピーク時まで国内約800店舗を展開していました。現在は、青山商事㈱の完全子会社として国内300店、アジア、オーストラリアなど6ヵ国600店舗を展開しています。当時はベルギーを本社とする外資系でしたが、今は国内企業としてショップネットワークを展開しています。(前回のブログご参考)

ここまで、外資を取り入れ、または外資を排し、規模拡大や業態変更、または資本参加、離脱、縮小、解散、倒産等、繰り返してきた様々な企業をご紹介してきました。

特に、カリスマ的経営者に翻弄された企業、方や他社との差別化を図り戦略的に成功をおさめた経営手腕の光る企業、その辿る道は違っていたかもしれません。但し、政治・経済の大きな渦に呑み込まれる時もあります。

結果は斯様に見えますが、未来は見えません。わかりません。しかし、誰一人として未来を否定することはありません。明日を信じ、夢見て活動していきます。明日のために、明日良いことがあると信じて。

最後になりますが、アンナミラーズご存知でしょうか?ドイツの民族衣装に似せたミニスカート姿のウェイトレスが店内で待ち受け、接客してくれるお洒落なお店。男性諸氏にはこたえられないですね。初めて入った時は目のやり場に困りました。1973年青山が1号店ですが、やはり青山と原宿が有名ですね。今はオンラインのみの展開みたいです。ちょっと寂しいでしょうか。思い出したので、記しておきます。

annamillersrestaurant.jp

長文お読みいただきありがとうございました。おわり

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